2015年7月15日水曜日

【JR八高線撮影記事】入間川橋梁、1990年代

相模線電化後に八高線にやって来た相模線色のキハ30

■入間川橋梁に行くと思い出す
前日の記事に書いた約25年前に撮った写真をお目にかけたい。旧ブログでもアップしたことがあるので、いずれも再掲載だ。その記事を加筆して再掲載しようかと思ったものの、新たに書くことにする。

撮影はいずれも1992(平成4)年9月のはずだ。フィルムはPKR(コダクローム64プロ)。大学生になったばかりの夏休みなのにアルバイトもせず、したがって遠出する余裕もなくて、高校生のころの同級生と近場をうろついていた記憶がある。中学生から大学生にかけてまだ非電化だった八高線は私には、そう遠くないのに遠出した気持ちになることができる路線だったからだ。なにしろ、八高線は当時首都圏で最後の非電化路線だった。

■鉄道写真をやめようと思っていた
そのころの私は鉄道趣味から離れようと決めていた。それは、そのころの自分には「いわゆる鉄道写真」が編成写真ばかりで、モチーフ編重主義というか「なになに線のなんとか系車両をどこどこの撮影地で順光でななめから編成をきちっと撮る」ということばかりが評価されて重視しすぎる、じつにおもしろみのないものに思えていたから。いま思えばそれは、たんなる自分自身の技術のなさでしかなく、そして同時にわかりやすい反抗期でもあったのだろう。

そのころでももちろん、編成写真ばかりではない鉄道写真を撮るひとはたくさんいたはずだ。かの「鉄道写真の神様」である広田尚敬さんと嵐山光三郎さんの共著『ぼくのローカル線』(山と渓谷社、1988年)を小中学校の親友とながめてはため息をついていた。親友は大人びていて「『広田調』とはほんらいはこういうものだ」などと私に語ったのをおぼえている。そしてまた、創刊直後の『レイルマガジン』誌のグラビアで見た八高線の入間川橋梁の写真も、私には刺激的だった。成人してカメラ誌の編集者になった経験から考えると、おそらくそれは編集部への持ち込み作品だったはずだ。

そのどちらも、いわゆる「編成写真」はなく、むしろ画面には車両がほとんど写っていないような鉄道写真だった。そして「そういう鉄道写真もありなんだ!」というのが当時の私にとっての開眼だった。

■基礎技術がないくせに気位だけは高かった
なにしろ、私自身はいまにいたるまで鉄道関係でなにかのクラブに属したことがなく、創刊されたばかりのRM誌や『鉄道ファン』誌にあった、撮影技法やカメラ、フィルム新製品の数ページほどの解説記事を読んで写真を自己流で始めたから。そのことはいまにして思えば、遠回りにはなっても特定の誰かの亜流にならずにすんでよかったかもしれない。きゅうくつな上下関係と「師匠」がいるひとにありがちな、師匠そっくりの劣化コピー写真を量産しないでいられる。弟子は師匠を越えてみせるか、べつのジャンルで勝負しろよと思う。

もっとも基礎技法を身につけるまでに時間がかかり、そのくせ「他人の真似はしたくない」という思いだけ強くて、椎名誠曰くの「基礎のない山下洋輔」とでもいおうか。つまり基本的な基礎技術が身についていないのにアレンジばかりしたがるために、写真の仕上がりの精度がなかなか向上できなかった気もするけれど。

こちらは首都圏色(いわゆるタラコ色)。むりやりシルエットに

セメント列車は重連も珍しくなかった。車掌車がないのが民営化後のあかし

■八高線に行ったつもりがカメラ写真ムラの住人になっていた
そんなわけで、そのころの私は「ローカル線を撮りたい」「非電化路線は絵になる」「だがしかし、遠くには行けないならば八高線だ」「八高線だって絵にできるひとがいる」「それならば自分も八高線に通ってみよう」という、きわめて単純な論理による思い込みによって通っていたことになる。

もっとも青少年の思い込みというのはあなどれない。この四半世紀あとになって自分が編集者になってカメラ関連のハウツー記事を考えたり、この近隣地域に暮らすようになっているわけだから。

【撮影データ】
Nikon F4S/AI Nikkor 35mm F2S, AI Nikkor ED 180mm F2.8S/PKR
JR八高線金子〜東飯能(1992年9月)