2011年3月12日土曜日

【東日本大震災関連記事】帰宅難民になりかけた日

【はじめに】2011年3月11日夜のことを書いた記事を加筆しアップいたします。あのときのささやかな記録を残しておくことも必要かと思うのです。そして、あらためて被災されたみなさまには心よりお見舞い申し上げます。

道路上のがれき。外壁が崩れた建物やアスファルトをあちこちで見た

3月11日の地震の日のこと。会社のある東京駅八重洲口方面から、内堀通り、新宿通り、明治通りを伝い、下落合を経て椎名町まで歩いた。早々に家族とは連絡がつき、埼玉県茶畑だらけ市の自宅で無事でいるのはわかっていたとはいえ、どこかのターミナル駅の近くまで歩いているうちに電車が復旧すればいい、と思ったからだ。


歩き始めはよかった。銀座ではすでに歩行者がみるみる増え、自動車は渋滞で動けずにいた。都バスも超満員のうえにまったく進む気配もない。夕方になるにつれて帰宅を急ぐ人並みはどんどん増えていく。有楽町を過ぎて日比谷公園のあたりにさしかかると、交番の警察官が拡声器でJRと東京メトロは今夜中には動きません、以上。と放送し、歩いている人たちが失笑した。「以上、じゃねえよ!」と。会社にいればよかった。でも、この人並みを逆方向に戻るのも嫌で、とりあえず新宿方向へ向かった。

一般道はみるみる渋滞し始めた

地震が起きたまさにその瞬間は実は三ノ輪で遅い昼食をとっていた。地下鉄はすぐに運行停止したので、会社から帰宅する前にすでに数キロ歩いていたので、足が痛かった。

首都高入り口はすぐに閉鎖された

麹町のコンビニエンスストアでトイレを借りようとしたら、その行列に驚いた。そして、ミネラルウォーターとパン、おにぎりが飛ぶように売れていく。それにしても、コンビニエンストアの店員さんたちは帰宅しないのか。不安な顔をせず働く彼らはヒーローだな、と思う。

ひびが入っている

沿道のファストフード店やビジネスホテル(新宿ではラブホテルも)はどこも満員だった。そんななかで「食事は出せませんがご休憩にお使いください」という表示を出していたハンバーガーショップや、「休んでお茶を飲んでいってください」と呼びかける台湾料理店の人たちを見て、涙が出た。

首都高ではパトカーが時折サイレンを鳴らして走るのみ

でも、ここのときは思えばまだ事態の深刻さをきちんと知らなかった。歩いていた人たちはみんなそうだったと思う。

あちこちの道路は大渋滞。交差点で警官が交通整理中

私は会社でテレビニュースをじっくり見ていられなかったので、この事態の深刻さを初めて知って戦慄したのは、明治通り沿いにある新宿コズミックセンターに立ち寄って休憩したときだった。テレビ画面に映し出される真っ黒い津波のようすに言葉を失った。

国会議事堂前を通って新宿方面へ。歩行者も多くてパレードのよう

コズミックセンターでは毛布の貸出しを行っていたので泊まることもできた。でも、埼玉県内の自宅にたどり着かなくても、都内の実家に行こうと決めて再び歩くことにした。

路線バスは大渋滞のせいで大混雑。タクシーはたいていつかまらない

高戸橋まで来たらなんと都電荒川線が動いていたのを見て、つい数時間前まで何も思わなかった日常と同じ光景を見ることができて、ちょっとだけ安堵して元気が出た。そして目白通りに出て西武新宿線の下落合駅を通りかかったら……非常停止している電車に乗務員がいて通電している。そして、駅員が出てきて間もなく運転再開すること、池袋線は一足先に動き始めることを教えてくれた。

サイレンを鳴らしてパトカーが高速道路を行き交う様子が不気味

ありがたい。歩行距離は13キロで済んだ。おかげで日付が変わる前に帰宅できた。西武鉄道をはじめとする関係各位のみなさんには感謝の気持ちでいっぱいだ。 

四谷では中央快速線の電車が停泊中。走る気配なし

でも西武は動き始めた!