2013年12月5日木曜日

【1980年代末の秩父鉄道】秩父100形電車のこと


コニカFP・ヘキサノン52ミリ(1985年8月)

■秩父になにかと縁があって秩鉄に惚れた
年時代を振り返ると、いまの自分の「秩父鉄道趣味」をかたちづくった理由のひとつに、なにかと家族を秩父へ遊びに出かけた機会が多かったことがあげられるだろう。自家用車を所有しない家で育ち、それが西武沿線在住であれば、秩父は当時おそらく西武鉄道が旅客誘致に力を入れていた観光地でもあったし、電車一本で行けるわりに変化のある、行きやすい観光地だったからでもあるだろう。
はじめて長瀞に行ったときも、三峯神社や浦山口の橋立鍾乳洞に行ったときにも、御花畑で秩父鉄道の電車を待つのが楽しみだった。とくにそのころの秩父鉄道は貨物輸送も盛んで、電車を待つ間に上下数本ずつ貨物列車が来るのを見ることができた。

コニカFP・ヘキサノン52ミリ(1986年4月)

いまでは石灰石の積み出しの主力が武州原谷貨物駅になり、日曜日は三輪鉱山からの出荷はないようだし、そもそも旧秩父第一工場もショッピングモールや道の駅などの商業施設になり、御花畑で貨物列車を見る機会はずっと減った。

■秩鉄オリジナル電車に興味がわくようになった
そして、貨物列車がさかんに走るなかを、他では見ることのできない秩父鉄道自社発注電車が走ってくるのが私にはとても興味深かった。

半鋼製で内装に木目を活かしたニス塗りでシートが緑色の100形電車。湘南型デザインでオリジナルの急行300系電車と前照灯が2灯の各駅停車用の500系電車。そして、小田急からやってきたバス窓みたいな800系電車。うまくタイミングが合うと国鉄や東武の電車にも出会うことができた。

コニカFP・ヘキサノン52ミリ(1986年4月)

何度も書いているけど、100形は地味で無骨な電車ながら首都圏の私鉄ではめだって古めかしい電車に思えて、とてもめずらしく思っていた。西武鉄道にも1980年代が終わるころにはまだ釣り掛け式駆動の電車は走っていたものの、私が覚えているような電車は内装はすでにデコラ張りにされ床がリノリウムになっていたから、内装が木製のニス塗りのままでシル・ヘッダーのある100形がなおのこと古色蒼然として見えて新鮮だったのだろう。東武東上線系列では7800系電車も比較的早期に姿を消していたから、ということもありそうだ。

長瀞で新聞の積み込みを見たこともある。クハニ20から新聞を降ろしていたと記憶する。東京から近いわりにむかしながらの鉄道が残され、しかも活気ある姿であるのを見て、もっといろいろな秩父鉄道沿線の鉄道シーンと見たくなった。それでも、そのころはそれを撮影しているひとにはめったに出会わず、ずっとのんびりした雰囲気なのもよかった。いずれも、SLパレオエクスプレスの運転が始まる前のことだ。

■1988年(昭和63年)春に雰囲気が一変した
1988(昭和63)年春にSLパレオエクスプレスが運転を開始して、静かだった秩父鉄道沿線の様子は一変した。観光客や研究熱心な私鉄ファンはいても、撮影地に三脚が林立することはそれまで見たことがなかった。そもそも、ほかの撮影者にさえほとんど見たことがなかった。それが、おもな撮影地は早めに行かないと満足に場所を押さえることができなくなるほど混雑し始めた。

そんな状況に面食らいながらも数回秩父に通ってみた。すると、SLパレオエクスプレスに雁行して100形が走る運用らしいことに気づいた。思えばこのころから、何かある日はネタ仕込みをしてくれる秩父鉄道の「仕込み」は存在したのだろう。だから私はパレオ通過後になると、いっそう緊張しながら線路際にいた。私にとっての「本番」がこれから始まるのだから。

SLパレオエクスプレスを狙って来る撮影者の大半は100形のことを知らないようで、おめあてのSLパレオエクスプレスが通過すると混雑していた撮影地からファンがいっせいに姿を消した。そうなると、撮影アングルがほぼ完全に自由になるのが、正直言えばうれしかった。

それでもたまには、秩父鉄道を知らなくても周囲のファンをきちんと観察できる慧眼なひともいる。あるとき、SLパレオエクスプレス通過後にも私がアングルを変えずにカメラを構え続けていたら、なぜカメラを片づけないのか、なにかやって来るのかとていねいに尋ねられた。いま思えば、いまの自分くらいの中年の男性だ。ベテランにもなると、きちんと周囲の様子を観察できるものだと少年の私は心の中でその男性に拍手した。

そこで彼には「釣り掛け駆動でシルヘッダーつきの旧型電車である100形が来ますよ」と教えた。親切な印象の男性だったからだ。その彼もそう聞くと100形を撮るべく構え出した。そうして、100形通過後に笑顔で別れたはずだ。撮影地で会ってあいさつを交わしたひとは趣味の仲間だと私は思う。これからも、そういうひとたちとは情報は共有できたら楽しい。あと、相手が思春期の少年だからといって邪険に扱うのもよくない。少年はあなたが知らないことを知っていることだってある。

さて、騒がしかった1988(昭和63)年春が終わってしばらくした同年6月、100形は1000系電車に置き換えられて姿を消してしまった。当時高校に入学したばかりで、鉄道誌を定期的には買っていなかった。部活の先輩が新聞でさよなら運転を行うことが予告されていると教えてくれた。ところが、私はどういうわけかそのさよなら運転に行かなかった。お小遣いがなかったのかもしれないし、うっかり忘れてしまったのかもしれない。行かなかった理由を思い出せない。

ニコンF-301・シグマ75-210ミリ・1987年3月

そして、そのまま私は鉄道趣味から20年ほど離れてしまった。その理由ももうよく覚えていない。大人になる通過儀礼として、子どもっぽくてあか抜けないと思い込んだ鉄道趣味をいちど捨ててみたいと思ったのか。いま思えば、シニカルを気取った思春期特有のカッコつけだったのかもしれない。そのあいだに秩父鉄道は大きく変化していた。

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