2013年12月21日土曜日

【ロシアこぼれ話】ルージニキ地下鉄橋の旧レーニン丘駅のこと

中央は閉鎖中のプラットホーム。
右の曲線しているものが地下鉄の仮設橋上のトタン屋根の覆い

■モスクワ地下鉄旧レーニン丘駅のこと
先日、モスクワ地下鉄の話を少しした。そこに貼った写真のなかにあった1995年当時には休止中だった旧レーニン丘(レーニンスキエ・ゴールイ)駅のことを書こうと思う。 

かつての駅ホーム入口。
左右の残骸はエスカレーターのステップ

この駅は1959年のサコーリニチェスカヤ線の延長に合わせて開業した。モスクワ川を渡るルージネツキー・メトロモスト(ルージニキ地下鉄橋)の1階部分にあり、ソビエト地下鉄初の橋上駅だったという。ガラス張りで眺望がよいように設計された駅で、おそらくモスクワ地下鉄でも自慢の駅だったろう。

ソフィヤ・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの主演するイタリア映画『ひまわり』にも登場する。旧レーニン丘からは川沿いの駅入り口に行ける長いエスカレーターも作られていた。

鉄の残骸のそばに「ヘヴィー・メタル」と
落書きするセンスは中学生っぽい

■モスクワ市内の景勝地
このレーニン丘とは市の南西部のモスクワ川沿岸にあり、かつては別荘やお屋敷の数多く立ち並ぶ場所だった。いまでも緑の多い景勝地で、展望台からは市内が一望できる観光名所だ。モスクワ市内で結婚式をあげたカップルがしばしば訪れる場所としても有名だ。白樺の林のなかにスキーのジャンプ台もあり、季節を問わず散歩にも楽しい市民の憩いの場所でもある。戦後は町の拡大とともに、モスクワ大学の新館が建てられた。

私はこの丘の方向を向いた部屋に一年ほど住んでいたので、しばしば丘やモスクワ川沿いに散歩に出かけた。

奥の新しいのが仮設地下鉄橋。
手前の橋脚コンクリ部分も作り直されていた

地下鉄レーニン丘駅はそんな素敵な場所の玄関口になる駅だった。だから、大理石によるスターリン・ゴシックふうのデザインではなく、軽量化のためにもより近代的に見えるガラスとアルミ、鉄骨とコンクリートで近代的なデザインが選ばれたのだと思う。

丘の上と河岸通りを結ぶ駅への連絡エスカレーター

■スターリン時代の「トゥフタ」のためか早々に使用停止に
ところがその近代的な軽量設計が災いしたのか、設計時の強度計算ミスや「工期短縮のため」とされる(*1)工事中のコンクリート部分への塩の使用、防水の不備などから劣化が急速に進んでしまったというのだ。開業後すぐに線路部分への雨水の漏水事故やアルミニウムを用いた部材の崩壊も起きた。1983年には想定された重量の60パーセントしか耐えられないことがわかり、使用の継続が危険であることが判明しとうとう閉鎖されてしまった。

その後ソ連国家自体がなくなり、ハイパーインフレや経済危機にほんろうされ、実に16年も閉鎖されたままだった。

近代建築ほど廃墟になると痛々しい

壁は落書きだらけ。近所のガキどもの探検場所だ

■駅連絡エスカレーター遺構に複雑な気持ちになる
筆者がモスクワに住んでいたのは駅の休止中だった1994年から一年ほどのあいだだのことだった。丘にあるエスカレーターの遺構(*2)や工事現場をしばしばうろうろしていた。もはや時効だと思うけど、囲いもなく近所の子どもたちも忍び込んで遊んでいたくらいだから、お許しいただきたい。

丘の上の入口から見たエスカレーター

廃墟というものには独特の魅力があることは否定しない。けれど、いっぽうでどきどきしながら撮影しつつも、もういっぽうでとても複雑な気持ちにさいなまされたことをよく覚えている。かつて映画で見た美しい駅が、無惨な姿をさらしていたからだ。国家とか政治体制が崩壊するとはこういうことなのだと思わされた。

私自身にはソビエト体制に思い入れなどはない。むしろ「悪の帝国」とレーガンが呼んだ時代に少年時代を送ったくらいだ。だからといって放置されていた廃墟を見ているのは、やましい気持ちさえあったし、楽しく心踊る気持ちにはなれなかった。同時代のロシアに住む人々からもよく感じたことだけど、かつての自信をなくした人々の絶望的なあきらめをかいま見るような気持ちになった。なんと答えていいものかわからなかった。

駅のあるルージニキ地下鉄橋の最上階は自動車専用道路で通行量も多い。トロリーバスも走っていた。だが、橋自体の崩落の危険性もあったために、地下鉄の線路は橋をはさんで左右に仮設橋が架けられてそこを走っていた。仮設橋を走る地下鉄の線路にはトタン張りのトンネル(スノーシェードかもしれない)で覆われていた。

もっとも、電車で通過するとカーブも設けられていて速度を落とすうえに、トタンの隙間から川面や陽光が見えるのでこの駅を通過していることはすぐにわかった。東西に分割されていた時代のベルリンUバーン(地下鉄)Sバーン(都市鉄道)の車内から閉鎖されていた幽霊駅(ガイスターバーンホフ)も、こんなふうに見えるのかもと思っていた。

■ロシア経済の成長により駅はリニューアルオープンした
さて、ロシア経済危機による外国企業の撤退とロシア企業の立ち直り、原油価格と天然ガス価格の高騰によりロシア経済が経済成長を見せ始めたころに、駅の再建が始まった。1999年より駅の工事は開始され、2002年にリニューアルオープンしたそうだ。

その際に、駅名もこの地の帝政ロシア時代の名前である「雀が丘(ヴァラビョーヴィ・ゴールイ)」と改称された。再建後のようすを見に行くことができたらと思う。

【撮影データ】
KIEV-19/MC MIR-24N 35mm F2, MC ARSAT-N 50mm F2/Kodak Academy 200, TASMA FOTO 320

*1「設計時の強度計算ミスや「工期短縮のため」とされる工事中のコンクリート部分への塩の使用」:橋の建設は1958年から59年だそうだ。すでにスターリン時代ではないので、無実の政治犯(ザクリュチョーンヌイエ、略してゼーカー)たちがかり出されたのかどうかは不明。少なくともスターリン時代に行われたモスクワ大学新館の建設、先日のカルーガ広場の建物建築に政治犯たちが動員されたことは、ソルジェニーツィンの著書などにある。

それはともかく「工期短縮のために塩を使い、そのせいで劣化が早まった」というあたり、厳しい工期とノルマをあてがわれてのソビエト時代の俗語「トゥフタ」なのではないか、という気がする。トゥフタとは収容所用語で「重肉体労働」の略だが、その意味は「指示通りに働かずに手を抜いた仕事」のこと。ごまかし、いんちき。おから工事のことだ。まともに指示通りに働くと命を落とすような重労働にたいして、手を抜いた作業のことをいう。

*2「エスカレーターの遺構」:こちらはまだ解体されず、数年中に解体される予定だとか