2014年4月12日土曜日

【秩父鉄道1980年代】急行「秩父路」用300系電車のこと その1

1985年10月1日、三峰口にて301編成

【はじめに】かつて秩父鉄道で急行『秩父路』号にもちいられていた300系電車について数回にわけてお話ししていく。第1回目はこの300系電車の概要について。

留置線に引き上げた301編成。800系電車も懐かしい

■秩父鉄道初の新性能ロマンスカー
秩父鉄道300系電車は1959(昭和34)年に日本車輌東京支社で製造された。車体長20メートル、幅2.8メートルの大型車体に2扉セミクロスシートというデザインで、秩父鉄道初のカルダン駆動と発電ブレーキを備えた新性能ロマンスカーだった。

電装品は三菱電機製。製造メーカーが日本車輌東京支社で電装品は三菱電機製というこの組み合わせは、秩父鉄道では1950(昭和25)年に鋼製車体で登場した100形電車でも実績があった。登場時はデハ301+302およびデハ303+304の全電動方式の2両固定編成だった。ただし、登場時にも中間にサハ(付随車)を挿入してMc-T-Mc'の3両編成を組むことが想定されていた。

デハ301。屋根上ランボードは1980年代に短縮化された

■秩父鉄道では「初物づくし」だった
300系電車はそのデザインに関しても、それまでの秩父鉄道の電車にはない斬新なスタイリングが特徴だった。ウインドウシル・ヘッダーのない平滑な車体に大きな側面窓を持ち、半流線形の正面には大きな二枚窓とヘッドライトを窓上に備えている。当時広まりつつあった湘南型のスタイルを採用していて、昭和30年代前半の鉄道車両の最新のトレンドをあますところなく取り入れた電車だった。

20メートルという車体長も。秩父鉄道の電車でははじめて導入された長さのはずだ。100形電車は車体長17メートル級であり、それ以前の電車はさらに短い15メートル級だった。

登場時は富士山麓鉄道3100形と同じように大きな正面窓を備えていた。これは、おそらく3両編成にされたころにか、500形電車と同様で本ページ内の写真などにあるようなやや小さい窓に改造され、窓下に通風孔が設けられた。

さらに、肌色に小豆色のツートンカラーを採用したのもこの電車からだ。ぶどう色(茶色)に白い帯をまとうウインドウシル・ヘッダーのある吊り掛け駆動方式の100形電車が主役だった秩父鉄道にとっても、初物づくしの電車だった。

国鉄の新性能車である90形(101系)が1957(昭和32)年にようやく製造が始まり、その後急行形の153系が登場するのは1958(昭和33)年であり、いっぽうの首都圏の大手私鉄でもまだ戦前から戦後に作られた旧型電車が幅を利かせているころだったから、新製当時はなおのことたいへん斬新で目を引く存在だっただろう。

サハ351。こちらは昭和41(1966)年の増備

■高度経済成長を背に秩父鉄道が急成長を遂げた時期
この電車が登場した1959(昭和34)年という時代背景を想像してみよう。朝鮮戦争後の好景気と高度経済成長の時代であり、セメント生産量と輸送量は伸びる一方だった。昭和31(1956)年には秩父セメント第二工場が操業を開始している。

1952(昭和27)年の国鉄高崎線の電化にも備えて、1951(昭和26)年には直流1200Vから1500Vへ昇圧し、単線自動信号化や電車のスピードアップとともに、施設の増強や機関車と貨車の増備が着々と行われ輸送力が増強されていた(*1)。

デハ302。車端部の小窓は便所で曇りガラス

また、貨物輸送量が増加していただけではなく、通勤通学と観光客の増加により旅客輸送量も伸びつつあった。世の中の暮らしに余裕が出てきてレジャーブームが起きると、秩父沿線は観光地としても再び注目されはじめた。前述した1952(昭和27)年の国鉄高崎線大宮〜高崎間の電化から間もない1957(昭和32)年には、週末の国鉄からの直通電車の運転も開始されている。東武東上線からの直通列車の運転も1955(昭和30)年に開始された。

この電車は高崎線乗り入れも目論んでいたという話もあり、そのために国鉄型車輌のサイズにされたのかもしれない。

また、1939(昭和14)年開業の三峰ロープウェイは1964(昭和39)年に車両と機器を交換し、1961(昭和36)年には宝登山ロープウェイも整備されている。三峰ロープウェイは2007(平成19)年に廃止されたが、宝登山ロープウェイの搬器はいまも開業時のものが使われていて、昭和30年代ふう日本車輌東京支店製のデザインをみることができる。

開業当初に用意した木造車体の電車の電動機を高出力のものに交換して台車を更新したのち、しばらく経ってから日本車輌東京支社で新造した運輸省規格型の鋼製車体にその主電動機と台車を転用するなどして、それまではどちらかというと堅実なやりかた(*2)で電車を増備していた秩父鉄道が斬新な電車を導入したことには、こういう背景があった。そこで、日本車輌が当時、地方私鉄向けに売り込もうとしていたロマンスカーを購入したというわけだ。

この300系電車は1956(昭和31)年に狭軌鉄道で初めてWN駆動を採用した富士山麓鉄道(現 富士急行)3100形電車と、外観と基本構造が非常によく似ている(*3)。そのほか、日本車輌製ロマンスカーには名鉄5000系電車の設計をもとにした車体長18メートルのものもあり、こちらは長野電鉄(2000系)富山地方鉄道(10020形、14720形)に導入された。連接車である福井鉄道200形電車もこの「日車ロマンスカー」に含むことができるだろう。いずれの各社とも国鉄からの乗り入れ列車があり、国鉄サイズの電車を運用できる設備を持ち、地方私鉄としてもそれぞれ優等生である私鉄だった。

(*1)1956(昭和31)年には秩父セメント第二工場が操業を開始している。それにあわせて、1951(昭和26)年には直流1200Vから1500Vへ昇圧し、単線自動信号化や電車のスピードアップとともに、施設の増強や機関車と貨車の増備が着々と行われていた:秩父鉄道創立110周年記念コラム 秩父鉄道110年の軌跡 第7回黄金期より。

(*2)開業当初に用意した木造車体の電車の電動機を高出力のものに交換して台車を更新したのち、日本車輌東京支社で新造した運輸省規格型の鋼製車体に転用するなど、それまではどちらかというと堅実なやりかた:当時の運輸省による電車製造に関する割当をクリアするためでもあったのかもしれない。また、秩父鉄道は開通時にも鉄道省から中古の橋梁を購入したほか、電化時には開業時の中古レールを架線柱に転用するなど、設備の導入に関してしばしば堅実な姿勢が見られる。

(*3)1956(昭和31)年に狭軌鉄道で初めてWN駆動を採用した富士山麓鉄道(現 富士急行)3100形と、外観と基本構造が非常によく似ている:300系電車には車体の裾絞りがないこと、前部ドアのデッキがないことと配置のちがい(3100形は運転室直後に客用扉がありデッキが設けられていた)、電動機の出力の向上(3100形は55KW、300系は75KW)、台車のちがい(3100形はNB1、300系は301形編成はコイルばねのNA4P、303編成は空気ばねのNA301)、おそらくは1960年代に前面窓下に通風口が設けられ、500形電車同様に窓がやや小型化したこと、そして中間車が1966(昭和41)年に増備されたことを除けば、たいへんよく似ていた。

これは偶然の一致などではないはずだ。富士山麓鉄道3100形電車をもとに、秩父鉄道が自社に合う仕様にアレンジして、メーカーである日本車輌製造東京支社に注文をしたと考えていいだろう。車体長20メートルの日車ロマンスカーとして登場した電車の数は少ないが、日本車輌側も、「地方私鉄向けセミクロスシートロマンスカーの20メートルバージョン」としてシリーズ化したかったのかもしれない。秩父鉄道はそうして、すでに実績がある車両を選んで発注したとすれば、やはり非常に「堅実」な選択をする会社なのだろう。なお、前述のように製造当初から将来的には中間に付随車を増備して3両編成にもできるよう、主電動機の出力は75KWとされていた。

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